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走食巡礼

走ることは、再び自分の足で生きること。

【厄年の哲学】「考えるな、感じろ」は僕の「走食巡礼」に通ずるか?〜心拍と人生の波を乗りこなす〜

 

このツイートから始まった一日。実は、先日、交通事故で入院し、その後の自宅療養もようやく落ち着いてきたところです。集中治療室にいた頃は一般病棟に移れるだけで喜びを感じ、その次は病院の売店へ行ける喜びに震えました。そして、病院から出られる喜びを知り、今は、草刈り機のエンジンをかけられるだけで心から喜んでいます。これらは、事故前には決してなかった感覚です。

だからこそ、今は「少しずつ外の空気を吸いながら体を動かす」こと一つ一つが、僕にとって大きな意味を持ちます。処分するタイヤを小屋から運んできたり、草刈り、パン箱の掃除、水槽の掃除、カブトムシの土交換など…。

これら日々のささやかな「動き」は、決して派手な運動ではなくても、僕にとっては大切な**「走食巡礼」の一環です。夏がどれだけ暑くても、自分の脚で歩けるだけで幸せであることは間違いありません。特に、人生の節目とされる「厄年」**という時期は、文字通り心身を「整える巡礼」と捉えるべきなのではないでしょうか。

男性の前厄(40歳)、本厄(41歳)、後厄(42歳)を見事に経験しており、厄上等で過ごしていた僕もすっかり弱腰。「そもそも厄ってなんやねん?」というところから知らねばなりません。これは単なる迷信か、それとも現代にも通じる深い意味があるのか。今回の記事では、僕自身の「厄年」経験を通して見えてきた、人生の「走食巡礼」における心身との向き合い方について、考えてみたいと思います。

 

「厄年」とは何か?〜庶民の知恵と現代の「走」の視点〜

簡単な話、「厄年」とはそのぐらいの年齢になったら”気をつけなはれや!”という庶民の知恵だそうです。当然、根拠などあるはずはありませんが、しいていうなら統計学的なことなのでしょう。人生の転換期に体調を崩しやすい、大きな決断で失敗しやすいといった、昔の人々の経験則が背景にあるのかもしれません。

統計学といっておいて突き放されますが、解決策は”財産を他人に贈与する”ことなのだそうで、ご馳走を振舞ったり、お菓子なんかを近所に配ることが厄落としになると考えられているそうです。

これもまた、コミュニティとの繋がりを大切にし、感謝の気持ちを表すことで、人間関係や精神的な「巡礼の道」を豊かにする知恵だと解釈できます。そして、厄年に心身を「走」らせて整え、不摂生を避けるというのも、現代における厄落としに通じるのではないでしょうか。

御礼参りとブルース・リー、そして禅問答〜「巡礼」の本質を「感じる」〜

で、忘れてはいけないのが”御礼参り”なのだそうです。ここで再び神様の話に戻るので、僕のようなタイプの人間は頭が混乱しています。Don't think! Feeeel!!(考えるな、感じろ)の精神でしょうか?

お、我ながら、これなら少し解りそう。

「考えるな、感じろ」は、ブルースリー先生の映画での名台詞ですが、映画でのセリフの全文はこうです。「考えるな、感じろ。指先のむこうにある月をみるんだ。指先を見ていては月は見えないぞ(栄光はつかめないぞ)」的なセリフです。

実はこれは禅問答が元になっていて、

ある書物の意味をたずねた修道女に導師は「私は文盲なのでどんなことが書いてあるのか、本を読んでくれないか」と答えると、その修道女は、
「あなたは字も読めないのに,どうしてこの話の意味を私に説明できるのでしょうか。」
すると道元導師はこう答えたのです。
「真実は言葉とは何の関係もない。真実は空に見える明るい月に例えることができます。
言葉は、この場合には、指に例えることができます。指は月の位置を指すことはできますが、大事なのは指ではありません。
指にこだわっていては月を見ることはできません。真実にたどり着くには指を越えてその先の月を見なさい。」

上記の文が元になったと言われています。

サンドウィッチマンのコントなら「ちょっと何言ってるか分かんない」と言うところでしょうが、もう少し頑張って理解してみると、「真実を見据えれば、言葉が分からずとも真実に辿り着く。手段が目的化してはいけない」という現実的な言葉にいい代えることができるのだと思います。

ちなみに、僕が暮らす福井県高浜町は、明治時代に日本人として初めてハーバード大学で禅を講義した「釈宗演(しゃくそうえん)」の誕生の地でもあります。 こうして禅の教えに触れると、自分が縁ある土地と、日々の「走食巡礼」が、どこかで繋がっているような不思議な感覚を覚えます。

これはまさに、僕が「走食巡礼」で大切にしている精神論とも重なります。ランニングという「手段」にこだわるだけでなく、その先に広がる景色や心身の変化、得られる「気づき」という「真実」を見据えること。そして、食事という「手段」だけでなく、それを味わい、感謝し、心身を養うという「目的」を見失わないこと。

まとめ:厄年は、人生の「走食巡礼」を深める絶好の機会

僕の最終的な解釈はこうです。お礼参りや厄払いというのは**「日々、小さなことに感謝して過ごし、心身の巡礼を怠らないようにしようよ」**という事ではないでしょうか?

心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば人生が変わる。という言葉が有名ですが、まさにそういう事なのだと思います。

人生の節目である「厄年」は、ただ「気をつけなはれや!」と脅される期間ではありません。むしろ、心と体を「走」らせて整え、日々の営みを「食」のように味わい尽くし、人生という大きな「巡礼」の道のりを深く見つめ直す絶好の機会なのだと、僕は思います。

僕の住む高浜町が禅と縁のある地であるように、日々の何気ない行動や思考も、実は深い意味で繋がっているのかもしれません。 次の厄(前厄60歳、本厄61歳、後厄62歳)は、さらに穏やかに、そして充実した「走食巡礼」ができるように暮らそうと思います。

 

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